2009年 01月 02日
四国鉄道文化館にて。 単に レールの幅が違うというだけではない。 右は在来線、狭軌。(1069mm) 左は東海道新幹線。広軌(正確には標準軌)。(1435mm)。 十河信二、島秀雄が牽引し、昭和39年開業した東海道新幹線。 高速で安全に安定した大量輸送ができるように、鉄道技術が結実し、戦前から、後藤新平、仙石貢、島安次郎らが果たせなかった標準軌鉄道の夢が、ここに実現できた。 「新幹線とは何であったかというと、それはひとつのコンセプトであった。時代の要請の強い大事な時に、新しい鉄道のコンセプトを提案したことが、新幹線の最大の成功の原因であり功績であった。」 山之内秀一郎 氏 「十河総裁の業績あるいは国鉄の成し遂げた偉業で特筆すべきは、東海道新幹線の建設である。」 葛西敬之 『未完の国鉄改革』 東洋経済新報社 2001年 ISBN:4-492-06122-3 C3021 ----------------------------------------- 以下 『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月 十河信二傳刊行会の記述から引用 鉄道は政争の具となるなかれ 「後年、十河が国鉄総裁になって、情熱を注いだ仕事のほとんどが、後藤新平から受け継いだものだといってよい。(仕事ばかりでなく、その生活信条まで受け継いだのではないか、と思われる節もある)。 十河は「日本の鉄道は、どうしても、広軌にしなければならないと主張、非常に苦労された二人の恩師(後藤新平と仙石 貢)を思うと、私が総裁になったからには、これだけは実現しなければならないと決意した。国鉄を広軌にする、最後のチャンスだ、と思った。二人の恩師が苦労した姿が、頭にしみ込んでいた」と語っている(昭和四六年六月の録音)」 『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月 十河信二傳刊行会 ----------------------------------------- 国会での 十河総裁の答弁 「私の尊敬する後藤新平総裁は医者でした。後藤総裁は人間の身体の血管は心臓に近づくほど太くなっている。心臓の周辺が太くなっていることが、端々の毛細血管にとっては非常によいことですだそうです。だから、東京~大阪の大動脈が太いということは、結局は地方の線区も、それによって裨益します。東海道沿線は、全国総人口の約四〇%を占めています。工業生産額も全国の六〇%以上を占める製造工業の中心地帯であります。だから ここに、いくら設備投資してもペイすると思います。」 国会での 十河総裁の答弁。 『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月 十河信二傳刊行会 ----------------------------------------- 仙石 貢 「仙石 (貢)は鉄道大臣になると、貴衆両議員などの鉄道無賃パスを全廃した。」 『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月 十河信二傳刊行会 ----------------------------------------- ”我田引鉄”を嫌った 「西条線(現在の予讃本線)の伊予土居-伊予西条間が開通したのは、大正十年六月二十一日である。十河の故郷へも、ようやく鉄道が通じた。 四国は、わが国ではもっとも鉄道の普及が遅れた地方で、四国の幹線というべき土讃線が全通したのが昭和十四年である。 四国出身の国会議員で仙石貢、白石直治などという鉄道に顔のきく大物もいたが・・・・・。 白石は、土讃線敷設のために長い間努力していた。仙石は、前述のように広軌論者で改主建従派で、”我田引鉄”を嫌った。 仙石が鉄道院総裁の時、白石が頼みにいくと「鉄道は営業収支償うところから敷設すべきで、四国などに鉄道を敷設するのは後回しでいい」といった。十河も改主建従派だった。」 『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月 十河信二傳刊行会 仙石貢は高知県高知市出身 白石直治は高知県南国市出身 ----------------------------------------- [お墓参り] 「春秋の彼岸には、十河は必ず青山墓地へ墓参りに行った。 後藤新平、仙石 貢、森 恪、江木 翼、三木忠造、大木達吉、岩井禎三などゆかりのある人の墓、約二十カ所くらいにお参りする。」 『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月 十河信二傳刊行会 ----------------------------------------- 広軌決定で青山墓地へ 「(昭和)三十三年十二月十二日=交通関係閣僚協議会は「東海道新幹線の早期着工」を決定した。東海道新幹線の着工が正式にきまり、十九日の閣議に報告することになった。 この十二日の夕方、十河は秘書の沼尾俊幸(後に新幹線支社文書課長)ただ一人を連れ、青山墓地の後藤新平と仙石貢の墓参りをした。」 『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月 十河信二傳刊行会 ----------------------------------------- 線路を枕に討死する覚悟で引き受けた 昭和29年9月26日 洞爺丸事故 昭和30年5月11日 宇高連絡船「紫雲丸」沈没、死者168人。 「 「国鉄総裁の長崎惣之助は5月13日、 「紫雲丸」事故の責任を負わされ、総裁を辞任せざるを得なかった。」 昭和30年5月19日 「紀尾井町の福田屋で、 十河は、民主党の総務会長・三木武吉と国会対策委員長・砂田重政に会った。 十河の回想によると、 三木・砂田は こもごも私(十河信二)に、国鉄総裁就任を迫るのであった。 私はもちろん断った。理由は老齢、病後、到底その任にあらず、と言うにあった。 三木は「君が学窓を出て、社会人としてスタートしたのは国鉄ではなかったか。四国の山村貧農の家に生まれ、最高学府を卒業しえたのは、国民大衆に負うところ甚大である。直接国民大衆に奉仕する官庁に奉職し、報恩感謝の生涯を過ごしたいと言って、国鉄入りをしたのではなかったか。いわば国鉄は君の祖国である。今や祖国の悲運、城を護る城主なきに苦しんでいる。然るに君は、白羽の矢を立てられたにも拘わらず、喜び勇んで陣頭に立とうとはせず、老齢だとか、病後だとか、辞を構えて逃避せんとするのか。一死報国の覚悟はないのか。武士道も、日本精神も忘れたのか。そんなに命を惜しむ卑怯者であったのか」と言い放った。 「おれは約束があるから、篤と再考してくれ」の一言を残して、席をはなれて行った。 ということで、この三木の言葉によって、(十河信二は)引き受ける決意をしたという。 三木はこの日、保守合同問題で大忙しだった。 中略 (十河信二は 総裁正式受諾した直後の 記者会見で) 「国鉄総裁を引き受けた心境は----」について、 「さきごろまで入院していた身体だ。血圧が上がったり下がったりして、健康状態がかんばしくないのだ。しかし国鉄の信用を回復せねばならない。私がはじめて就職したいわば生まれ故郷の大事だから、最後のご奉公と思い、線路を枕に討死する覚悟で引き受けた」 『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月 十河信二傳刊行会 ----------------------------------------- 往復で五里 「新居浜の生家から西条の中学校まで二里半、往復で五里(一九・五キロ)である。往復五里の道は、一三、四歳の少年の足では五時間近くはかかったろう、素足にワラジか草履履きで、貴重品の革靴は、学校近くに預けておいた。」 ----------------------------------------- よもやま話> 有法子(ユーファーズ)
by shumiyama
| 2009-01-02 10:01
| 鉄道
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